いつからか、職場での方向性というか、提示している方針と自分の認識や一般の方々とのニーズと差が広がっているような気がしてきました。


「それは自然淘汰ですから、そのままにしておいてください。」
「ひとの近くで生きる野生動物は人が関わる事故も生態の一部なんですから、そのままにしておいてください。」
と言われても、自宅の庭で死なれたらいやだろうに。
きっと納得しきれないまま、でも行き場がないまま、
その個体には結果は同じなことがほとんどだけど、何かが違う。
納得いくほどの説明もできてないのに、ただ断るだけになっていないか?


救護してますと言うとよく言われる「一匹でも多くの動物を助けてあげてください!」
でもここではその一匹に対しあまりに意識が低い
そこまでしなくていいという感じになっているような。
一人がんばっても「そんな一羽に頑張っても…」と孤軍奮闘状態になってしまう。


一羽一頭の救護は確かに生態系には何も役には立たない。
でも今出来ることしたら、100年したら100頭羽助けられるかもしれない。
それは技術も、啓蒙も同時にしないと進められない。
技術の向上を図る雰囲気がなくて
出来るのはあきらめの早さ
後進に教えるほどのものはないのに、それを恥じることもない
だって野生動物だからわからないと妙な納得で済ませてる。
生態系重視ということは、個体の治療行為やケア行為をないがしろにしていいってこととイコールじゃない。
一般の方々が求めているのはそういうことじゃない。


ちっぽけ過ぎる命は保温も自分で出来ない
個体の自己生命維持レベルが低いものはそれだけであまり意味がないからと
搬送されてなおケアがされずに衰弱して餓死してしまう。
保温して餌あげれば維持できるのに
ないがしろとはまさにこのこと。
保温が翌朝まで持たないと分かっていてももうそこに意識は持ってかれない。
死んで当然
そんなの変だ。
でも、もうそこに興味はないみたい。


タヌキは患部や尾をストレスや違和感から自分でかじりだす。
カラーをつければそれは予防が出来る。
でも、かじりだしたら自分で生命維持が出来ないとかそんな理由で安楽死されそうになる(止めたけど)
じゃあ治療は何のため
拘束されて暴れたらオシマイなのか
暴れて当然、それをうまくコントロール出来るようにすることが技術じゃないのか
なんだか基準が分からなくなる
そんなことであきらめてたら何も出来ない。
尾をかじったから、安楽死にしました。そんなの納得できる人は少ないだろう。



外部の先生と話す機会があるほどに、技術のなさや、無知識さを感じる
でも外部とつながっていないとそのことすらも分からないままになる
新しい知識、知見、治療方法
どんどん世は進んでいるのに、そのことすら知らない。
ただただ生態系重視です、そういうものですから、助けなくていい
(生態的データも当然大事です。多様性重視も当然大事です。愛護ではないのだから、混同はしてはいけません)



なんというか、文章に出来ませんが
外部の先生や一般市民の皆さん、学生さんやボランティアさんと話していないと
「こてこての行政のやること」になって
本当に求められていることと離れているのに気がつかなくなりそうです。
すでに職場がそういう方向にどんどん向かっていることに少しずつ気が付いてきました。
(来たばかりのころはいっぱいいっぱい、それどころではなく
秋頃から学会や勉強会であまりの技術の差に衝撃を受けて
そのうち自分が治療しないといけない事態が出てきたことで、躊躇や逃げるのは嫌になって
春ごろに研修や外部の先生方との勉強会で改めてもったいなさを感じ、
春以降新しいボランティアさんと話す機会が増えて…教えるなんてレベルじゃないことを感じて
と、だんだん違和感が大きくなったというところです)


なんか変だ!
とうまく言えない頭の回転の遅さが困りものですが
なんか変だ!
と言わないとまずいみたいです。
方向性はそうかもしれないけど、それだけじゃないように、自分頑張らないとです。