今いる救護施設としてのとらえ方を、どちらかというと教育施設としてとらえています。
研究施設であり、教育施設でもあるとは思っていますが、どっちも大事ですが
自分がするべき立ち位置はその中でも教育的なところかな、と。
その相手も意識の高い学生や研究者じゃなくて、もっと一般の方を見てしまいます。


「鳥が落ちていて、何とかしてほしい!」と野生動物とか環境とか自然とか
なんにも興味ない人がある日出会う野生動物
鳥の種類も生態も当然わかるわけない。
今まで興味もなかった人が、その瞬間興味を持つ。
その時の対応の仕方ひとつで「へ〜、うちの身近にも自然ってあるんだなー」とか思うようになるかもしれない。
次同じ山を見る目も変わる可能性がそこにある。
その「へ〜、面白いな〜」と思ってもらいたいために、興味を持ってもらいたい、知ってもらいたい
そのためのある意味ひとつの手段としての傷病救護のような気がします。
何か自然で起こっている変化や残酷なまでの日常を身を持って向こうからやってくる
伝える手段としてこんなに大きなことはない。
いつもは聞いてくれない人が聞く瞬間。



そういう意味で「なんとかしてほしい!」という気持ちをぞんざいにはしたくないし
その気持ちをくめる人であり続けたい。
研究機関や調査機関としてだけのスタンスであれば
生態系うんぬん、ともっともらしい正論でどれだけだって言えることは出来るかもしれない。
でも、一般の本当についさっきまで興味がなかった人にとっては重いんじゃないだろうか。
なんか難しいことを言われたけど、助けてはくれなかった、みたいなそこだけが思い出になってしまうんじゃないか
そんな風に思うのです。


興味を持ってくれていたり、その次へと足を踏み込んでいる人ならばまた対応はちがうかもしれないけど
世論って一般の方、
なんとかしたければ、大多数の知らない一般の方を少しずつでも動かそうとするしかないんじゃなかろうか。



どうも自分のありたいスタンス(より一般の方へ)と求められる?スタンス(ここは研究施設だろ!みたいな)がちょっと違うようで
当然そうすると会話がずれる
より一般に向けたい!きっかけ作りをしたい!と思う意図と、それじゃ研究者が納得しないよ!という意図と。
生態系からしたら、何の役に立たないことが多いのは確かです。そんなことはわかってる。
その上で何のためにある?何のためにいる?
ひとつは知ってもらうためですよ!
そうじゃないのかな。


支離滅裂ですみません。
でも、私は目線を入ったばかりの学生や、一般の方と出来るだけ同じでありたい。
数値で現れる効果が少なかったりするかもしれない。
そう思っても、そこにスタンスを持っていたいなと思います。